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【読書】『本当の翻訳の話をしよう』 村上春樹 柴田元幸

 この二人の本はなるべく新刊で買いたい、という村上春樹柴田元幸共著の『本当の翻訳の話をしよう』(スイッチ・パブリッシング)を読む。

 基本的には柴田元幸が編集する雑誌『MONKEY』に掲載された二人の対談を中心に再録が多いが、途中に柴田氏の講義録である『日本翻訳史 明治篇』が収録されていてこれだけでも十分面白い。

村上春樹柴田元幸の対談集、ついに刊行決定。
文芸誌『MONKEY』を主な舞台に重ねられた、
小説と翻訳をめぐる対話が一冊に。

  小説家と翻訳家による小説四方山話

 村上春樹は言わずと知れた現代日本小説界の大家だが、あるいは小説以上に翻訳家としても成果を上げてきた。一方柴田元幸ポール・オースターを中心に現代・古典のアメリカ文学の翻訳者、研究者として英文学界をリードしてきた。

 そんな二人の対談は少しでも読書、特に海外の小説が好きという人になら流し読みするだけでも面白いはず。

帰れ、あの翻訳』と『復刊して欲しい翻訳小説100』は本書の序章であると同時に格好のブックガイドになっている。「イギリスの小説が描写で読ませるとすれば、アメリカは声で読ませるんだと思う」(下線部本文引用以下同)「昔の短編は、書き手が『自分は物語を語れるんだ』という信念から語りはじめていて、読み手も『自分は物語を読む/聴くんだ』という信頼のようなものを持っている」と、文学論から小説をめぐる状況にまで話が及んでいって飽きさせない。とにかく二人の読書量に驚かされる。

 時代時代によって受けるものは変わって来るから、どうしても絶版になってしまうものもある。それでも復刊に値する作品は多いし、そして時代に添った新訳も必要になってくる。そのリバイバル企画として新潮文庫の「村上柴田翻訳堂」シリーズが始まった。

 十何年か前に光文社の「古典新訳文庫」が始まったあたりからの、そうした古典復興・新訳の流れが続いているのは喜ばしいことだ。名作は常に新しいのだから。

文章の好みと翻訳観の違い

 二人の対談で明確に翻訳を中心テーマにした章は二つ、『翻訳の不思議』と巻末の『翻訳講座』。

 古びない翻訳とは何か? 過去の優れた翻訳(とされるもの)を挙げていって議論が進むが、結論らしいものは出ない。むしろ「同時代的な文章で同時代的な内容のものを着実に訳しても、なかなか名訳とは言われにくい」と否定の側面から定義していく。

 対談の中で述べられているように、名訳云々を言っている人たちも、原文としっかり突きあわせて検証している人はほとんどいない。そんな面倒をするのはそれこそ専門研究者くらいのものなのだろう。結局は出てきた訳文自体の良さから、何となくこれは良い翻訳なんだな、と雰囲気で決まってしまうのではないか。あるいはバースの『酔いどれ草の仲買人』や鴎外が訳した『即興詩人』のように、作品の内容と訳者の(選択した)文体がハマっただけなんじゃないか。

 なんだか文学の(というか文系的)なあなあ感がにじみ出ているが、結果として出てきた翻訳を読むとやっぱり面白いのだから不思議だ。研究者である柴田も厳密に定義しようとはしないし、おそらく不可能なのだろう。村上が良訳だというジョン・ル・カレ『スクールボーイ閣下』について「ぐしゃぐしゃ性を突き抜けると、すごく感じるものがある」と言うのはさすがにめちゃくちゃすぎて笑ってしまうが。

 二人の文章の好みの違いも面白い。

 柴田元幸はオースターのシンプルかつ美麗な文章を訳す上で最良の翻訳者だったが、村上は「あまりにも整い過ぎているから」オースターは訳せないという。そして反対にチャンドラーの文章には「ほとんど嫌がらせとしか思えない」「悪文ブロック」があると文句を言っているが(フィッツジェラルドも同じらしい)、村上がここ数年チャンドラーを訳しているのは周知のとおりだ。ロジックだけでは収まりきらない、言ってしまえば破綻した部分に、村上はむしろシンパシーを覚えるのだろうか。

 研究者の柴田、作家の村上と括ってしまうのは乱暴だが、対談を読んでいるとフランクな村上に真面目な柴田が引っ張られていくという雰囲気があって面白い。上記の村上柴田翻訳堂でも、例えば『宇宙ヴァンパイアー』を村上が選んだことに柴田が終始頭を捻っていたのを思い出す。村上は柴田を翻訳の師匠と仰いでいるが、師匠の方が弟子の奔放さに困惑しているのはマンガのようだ。

 巻末の『翻訳講座』では実際に原文を提示し、それを二人がそれぞれに翻訳することで、両者の翻訳に対する姿勢の違いを見せている。

 ここでも上に述べた奔放な村上、堅実な柴田、という図式が当てはまる。

 フィッツジェラルドを訳した時、柴田は自分は文章を「単語レベルで考え」、村上は「フレーズ全体の本質を大づかみで捉え」ているという。私見だけれど、柴田は単語を日本に正確に置き換えることを、村上は日本語として伝わる文章にすることを主眼に置いているように感じた。だから柴田訳は時に堅く(そっけなく)なり、村上訳は時に冗長になりすぎる。

 村上も言っているが、より正確なのはおそらく柴田訳なのだろうと思う。ただ村上の訳は読んでいて気持ち良い文章であるがゆえに、そのまま原文へと読者を誘う効果がある。「原文が対象から距離置いて」いても、村上は「むしろその距離を縮めるような訳に」している。柴田訳が翻訳書というパッケージとして完璧なものにしているなら、村上訳は読者と原文との橋渡しになっているのだ。まあ自分は柴田訳を読んで原文に当たるという経験をしてきたので結局は印象にすぎないのだが。

驚きの日本翻訳史

 本書のなかでやや毛色が異なるのが、柴田元幸の独演である『日本翻訳史 明治篇』。題名の通り、明治時代に入って西洋文化が押し寄せてきた頃に活躍した翻訳者たちの話。

 坪内逍遥二葉亭四迷といった立役者たちの翻訳やその文章の変化を辿っていくのだが、それが新しい時代と文章を作っていくのだという熱意に溢れていて興奮する。特に四迷の『浮雲』の文体が、ツルゲーネフの『あひゞき』の翻訳を通すことで(わずか数年で)劇的に変化していく過程を見ると、明治初期というのが本当に激動の時代だったというのが分かる。

 また明治に活躍した翻訳家である森田思軒黒岩涙香の二人を、今の翻訳に繋がる重要人物として紹介している。

 柴田は現在の翻訳を、基本精神は森田思軒を受け継ぎ、実際の訳文は黒岩涙香に依っているとする。森田思軒は翻訳に使う言葉やその表現の原則を示した(平易で特定の文化に根差していない語句を使う)が、やはり時代もあって文章自体は漢文調で硬かった。黒岩涙香は翻訳こそ今ではちょっと信じられない無茶なやり方(翻訳の際に原文を見ていない)をしていたそうなのだが、その文章は森田の思想を体現するような平易で分かりやすいものだった。

 今では当たり前のような口語体で原文に忠実に、という翻訳原則にたどり着くまでにどれだけ困難な道筋があったのか、柴田元幸はさすが先生という引き込まれる語りで講義をしてくれる。

 M・H・キングストンやロス、先日訳書の出たチーヴァーなどについて語る再録対談も読み返すたびに発見と驚きがある。正解がない翻訳という話題で、ここまで読ませる人たちはなかなかいない。翻訳だけでなく創作や読解全般についても様々なヒントをもらえる充実した一冊だった。

本当の翻訳の話をしよう

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