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【映画】『デイジー・ミラー』 ピーター・ボグダノヴィッチ

1974年 アメリ

監督:ピーター・ボグダノヴィッチ

キャスト:シビル・シェパード、バリー・ブラウン他

ヘンリー・ジェイムズの短編小説の映画化

 最近は古い映画を多く見てる流れで、ヘンリー・ジェイムズ原作の『デイジー・ミラー』を見る。

 監督はピーター・ボグダノヴィッチ、他に見ているのは『ペーパー・ムーン』くらいだけれど、名前は聞いたことのある有名作を数多く監督しているみたい。

 ヒロインのデイジー役が若かりしシビル・シェパード。相手役に『夕陽の群盗』のバリー・ブラウン。あの作品ではジェフ・ブリッジスが出世したけれどブラウンはその後あまり成功はせず(そのせいかどうかは不明だが)自殺してしまった。

 ヘンリー・ジェイムズの作品は結構(翻訳で)読んでいたけれどプロットの複雑さとか心理描写の細やかさとかで難易度は高く、比較的分かり易いというこの作品でさえあまり内容を覚えていなかった。

シビル・シェパードが魅力的に演じる“デイジー・ミラー”は、自由奔放なふるまいで周囲の人たちの反感を買ってしまう。
ヘンリー・ジェームズ原作の古典小説を脚色したこの映画は、教養の欠けた母親と反抗的な幼い弟と共に、祖国を離れヨーロッパで暮らすアメリカ人の物語。社会通念にとらわれないデイジーの生き方は時代のはるか先を行っていたため、1878年ビクトリア女王時代の上流社会で物議を醸すことになる。

  ジェイムズの小説はヨーロッパ対アメリという構造で描かれることが多いとされるけれど、この物語も「ヨーロッパ暮らしの長いアメリカ人男性」と「アメリカ人気質を持ったままヨーロッパで暮らす女性」という対比になっている。本来はアメリカ人であるフレデリックが、その生来の気質を大陸の空気に染められてしまったために、アメリカ的気質の天真爛漫なデイジーとの間に起こるすれ違いが物語の核になる。

 よくしゃべる女と鈍感な男

 デイジーは美しいけれど空気を読まない我が儘という地雷気味の女。その勝手気ままな行動に、フレデリックは惹かれつつも振り回され、結局デイジーがイタリア人と親密になった(と勘違いする)ことで彼女の元を離れてしまう。

 けれどローマのコロッセオ前でフレデリックが「どうでもよくなった」とデイジーに言った時の表情で、映画を見ている方は決定的な過ちに気付く。そしてすぐに遅れてフレデリックも過ちを知ることになる。

 こういう観客と登場人物との間にある認識(情報量)の差って結構好き。その一瞬だけは自分が登場人物たちを支配しているような気になる。特にこの二人のすれ違いを描いた作品では必然的な演出かもしれない。

 ヨーロッパとアメリカという対比を、男と女という太古の昔からある対比に重ね合わせ、その宿命的なすれ違いを上流階級の華やかな世界をBGMとしてもどかしく描いている。無垢、あるいは無知なる者が、成熟、あるいは世慣れた者の前で途方に暮れるという状況は夏目漱石の『三四郎』なんかも連想させる。そういえば漱石はジェイムズをよく読んでいたんだっけ。

 ただこの作品の場合は、無垢に対する成熟なる存在であるデイジーもまた、フレデリックとそれほど変わらない未熟な存在でもある。つまりはジェイムズが描いてきたヨーロッパ対アメリカという図式から、アメリカ人同士という図式で物語が動いているとも言えるのだ。

ここはアメリカではない

 ラストのモノローグ、「自分はアメリカを長く離れすぎたのだ」というフレデリックの嘆きは、根本的な文化の断絶という歴史的な状況以上に、その異文化の中で一人の人間が元々持っていた資質を失ってしまう悲哀を感じさせる。

 こういうのは多民族国家の(特にアメリカ、また各国に住む少数民族、マイノリティの)文学に良く現れるテーマだと思う。ジェイムズは国家が民族主義的に固定されて、その断絶がよりはっきり意識されるようになった頃の作家だから、今に続く文学テーマの走りだったのかもしれない。

 原作と同じように映画も長くはなく、きらびやかな絵作りとデイジーの溌剌とした様子(好き嫌いはあるかもだが)に最後まで飽きずに見ることができた。古い映画ってうるさい演出が無くてものたりないときもあるけど、その分落ち着いて見ることができるので最近は特に好むようになった。

Daisy Miller

Daisy Miller