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【読書】『闇の奥』 ジョゼフ・コンラッド

 映画『地獄の黙示録』の原案である『闇の奥』はイギリスのジョゼフ・コンラッドの作品。村上春樹の『羊をめぐる冒険』でも、書名は伏せられているがおそらく登場している。

 以前は岩波文庫中野好夫訳で読んだが、今回は光文社古典新訳文庫の黒原敏行訳で再読。黒原氏はコーマック・マッカーシーのような難解で翻訳の面倒な作品をよく訳されていて海外小説読者としてありがたい存在の一人。

船乗りマーロウはかつて、象牙交易で絶大な権力を握る人物クルツを救出するため、アフリカの奥地へ河を遡る旅に出た。募るクルツへの興味、森に潜む黒人たちとの遭遇、底知れぬ力を秘め沈黙する密林。ついに対面したクルツの最期の言葉と、そこでマーロウが発見した真実とは?

 コンゴ──地の奥底への旅

 物語はイギリス、テムズの河口で出航を待つ船の上で、乗組員の一人チャーリー・マーロウが誰にともなしに過去の体験を語るところから始まる。「闇はついこのあいだまでここにあったんだ」(下線部本文引用、以下同)。イギリスを指してマーロウはそう語る。かつてローマ人がこの地に踏み込んだ時、彼らを迎えたのは文明の光の全くない「完全な野蛮さ」だっただろうと。そしてローマ人は圧倒的な力でその野蛮さ、闇をねじ伏せ征服した。そして今マーロウが語ろうとするコンゴををはじめとするアフリカ諸国は、ヨーロッパ列強による力によって植民地とされている。

 歴史は繰り返し、マーロウの物語は列強によるアフリカの悲惨な暴力的支配の告発の予感がある。しかしマーロウが目にするのはそう単純なものではなかった。

 暗黒の地アフリカに惹かれたマーロウは、伝手を駆使して目的へ向かう船に乗り込み、そこから長く険しい「地の奥底へ」の旅に出る。

 最初の出張所に到着するまでの約ひと月の間、マーロウ目に映るのは典型的な植民地支配の光景だ。森は切り開かれ、黒人たちが鎖に繋がれ労働に従事し、軍艦が大砲を「敵」に向かって撃ちこむ。しかしマーロウはそんな現実を目にしても特に心動かされた様子はない。この小説は難解で曖昧、かつ大仰な言い回しが多いが、この部分は後半のそうした部分と比べると驚くほど感情の動きが無い。こんな表層的な現実など当たり前のものであるかのように、マーロウは(多少うんざりしつつ)通り過ぎる旅行者の目線で淡々と語る。

 そんな中、マーロウは出張所で働く会計士から「クルツ氏」の名を耳にする。その時は優れた一級社員の一人だと聞くだけだったが、やがてこの旅において中心的な人物となっていく。

闇の奥へ

 先に進み中央出張所で支配人と会ったマーロウは、そこで故障した船の修理をしながら時間をしばし持て余す。この支配人は言ってしまえばこの時代の俗物の象徴であり、マーロウにとっては終始不快を催す人物として描かれている。

 それと対比されるように、クルツの話が増えてくる。クルツについて語る社員はどこか彼を信奉している。「慈悲と、科学と、進歩と、そのほかいろんなものの使者」と社員に言われるクルツは、少なくともこの時点では未開を啓蒙しようとする、支配人と対を成す植民地主義の体現者であるが、記述は曖昧ながら植民地経営に関する二人のやり方は相いれないもののようだ。

 それから出発まで時間を要し(数ヵ月?)、ようやく船は先に進みだす。周囲の自然はいよいよ深く、暗くなっていく。それは「過去」、言うなれば「世界の一番初めの時代へ戻る」ような感覚だった。

 過去は不安に満ちてざわつく夢の形をとり、植物と水と沈黙のこの異様な世界の圧倒的な生なましさの只中で、驚異の念とともに憶い出されたのだった。この生命の静まりは、安らぎとはまるで似ていない。何をたくらんでいるのか窺い知れない情け容赦のない力がたれこめている、静寂不動の世界だ。それは復讐心に満ちた顔でこちらをじっと見つめている。

 文明が切り捨てあるいは支配してきた自然が、この闇の奥では 時として侵入者に牙をむく。それは先に森に入った〈黄金郷探検遠征隊〉の全滅、原住民との出会いと衝突、森の奥から聞こえる(おそらく)獣の声などで表面的には示される。

 しかし進むにつれてマーロウの心に兆すのは、自分と「彼ら」との間に境界などないのではないかという疑問、その感覚だ。

だがぞっとするのは、彼ら(※原住民)も俺たちと同じように人間だと考える時だ。自分たちもこの野性的な熱い興奮と遠いつながりを持っていると思う時だ。なんて不愉快な。そう、とても不愉快だ。

 マーロウが考えるのは「人間も自然の一部である」というような文明社会でクーラーに涼みながら思索するような生半可なものではない。

 人間の心にはどんなものでも入る──過去と未来のすべてがそこにあるんだから。 

 全ての時間が同時にそこにある。それは文明も野蛮も一緒くたにして呑みこんでしまう混沌だ。それは過去未来未開進歩といった区分を無効にする。

 マーロウは同乗する黒人奴隷たちの中に、自分と同じ理性──自制心を感じ取る。そして同時に自分が彼らと同じように本能──飢えに恐怖を抱き、苦しむ存在であると自覚する。「彼ら」は次第に「彼ら」ではなく「自分たち」になっていく。

クルツ──声の偶像

 そして河での襲撃により乗組員に死者が出ることで、境界の消失が一層進んでいく。

 俺にとって、クルツとは一つのだった。

 現実の死を目の前にし、「とてつもなく大きな失望感」が襲う中でマーロウはそう思い当たる。目の前に倒れた乗組員と対照的に、クルツの存在は実体がなく、にもかかわらず自分を惹きつけ、闇の奥へと誘う。

その全ての才能のうち、最も顕著で本当に存在感を持っていたのは、語る力、その言葉──表現する能力、人を混乱させ、啓蒙する、とびきり高尚でありながら卑しむべきもの、脈打つ光の流れ、あるいは見通せない闇の奥から発する欺瞞の流れだったんだ。

 それはあたかも神とその声を聞く信者のようで、後に見えるようにクルツが原住民に振るった啓蒙的な力に、マーロウも間接的に中てられている。クルツという啓蒙者自体が植民地主義の生み出した時代の悪霊であったとしても、彼が語る声には人を感化する力があったのだ。

 しかし物語はクルツを単に超人的、聖人的な人物としては描かない。

 さらに奥へ進みようやくクルツが居る出張所に着き、マーロウはそこでハーレクィンに雰囲気の似たロシア人青年に出会う。彼もまたクルツに心酔し感化された(「精神の幅を広げ」られた)一人だが、マーロウたちが到着したことで自分の役目は終わったと、立ち去ろうとしている。彼はハーレクィン(道化師)という言葉が示すように、クルツの存在をマーロウの中で相対化させる役目を果たす。

 クルツのカリスマを讃えながらも、青年は一方でその俗物的側面──原住民に崇拝される権力欲、啓蒙以上に心を捉えた象牙への物質欲などを暗に示していく。それは出張所の前の杭に晒された生首によって絵面として象徴され、マーロウに真実を見るように促す。

…いろいろな欲望を満たすにあたってクルツに自制心が欠けていたこと、彼には何か欠けているものがあった…

 闇の奥で欲望を抱きその結果孤絶に囚われ、代償を支払ったクルツの実際をそうしてマーロウは理解する。この「自制心」を、マーロウは乗組員の黒人奴隷たちの中に見ていた。

 境界は揺らぎ価値観は逆転する。それは単に西洋こそが野蛮なのだという単純な反転ではない。全ては同じ混沌の中にあるという意味の深い絶望感だ。

 青年は語り終えるとすぐに闇の中へ退場する。その姿は幻のようだった。

闇の外の闇

 この後マーロウは病床のクルツに会い、その死を看取り、そして河を戻り元の世界に帰還することになる。

 真夜中にクルツと会話する場面、実は何が起こったのか正確には分からない。曖昧な言い回しが多く、クルツもまた多くを語らない。叫び声の主は誰か、なぜクルツが外に這い出したのか、明確な説明は無い。ただ野望の尽きたクルツの呪詛から、クルツが支配人(あのろくでなしの馬鹿)に暗殺されかけ、逃げだそうとしたのではないかと想像する。その後支配人は何食わぬ顔で船に同行し、クルツの死を見届けるのだが。

 帰還後、マーロウはクルツの元フィアンセに会う。それは自分の中にくすぶるクルツの影を、「忘却の手に引き渡してしまいたかった」からだ。神を失った人間がもう一度神の声を聞き、その欺瞞に絶望したかのように。

 フィアンセは一つの意味でマーロウの期待に応えた。彼女は「どこか見憶えのある幽霊」、自分にとっての神(価値観、思想)を信じて疑わない人物だったからだ。「あまりにも冥すぎ」るその無垢さを、マーロイはもう信じることができない。

 クルツ自身の語るシーンは非常に少なく、マーロウが悟るようにその存在は他者からの「声」として読者に暗示される。それゆえに小説全体に深い陰が落ち、容易な読解を許さない。適当に理屈をつけようとしてもどうしてもしっくりこない部分が出てきて、まさに境界のない混沌に包まれている。

 本書はよく「人間の闇」、それが生まれるプロセスを描くとも言われるが、再読するとそれもやや正確さを欠くように思えた。確かにクルツは魔境の呪縛に呑まれある種の狂気に堕ちたが、そこから出てきたのは極めて卑俗な欲望だったから。それが闇ではないとは言わないが、そんな場所にいても変わることのできない、人の宿命を見ているような思いがする。

 帰還の船の中、(明言されないがおそらく病で)死の淵を彷徨ったマーロウは、こう述べる。

人生とはおかしなものだ──虚しい目的のために、情け容赦のない筋道が、どういう具合にか用意される。人生に期待できるのは、せいぜい自分について何事かを悟れるということだけだが、それは常に遅ればせな悟りであって、つまりは悔やみきれない後悔を得ることでしかない。

 それは「自分が正しいという信念も、敵が間違っているという信念もない」という悟りだ。どれだけ生きてもその本質を掴むことはできない。ただ「怖ろしい! 怖ろしい!」ものなのだ。

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)