【読書】聖書を読む・新約聖書
去年の秋から読み始めて、年を跨いで一月下旬に『新共同訳聖書 旧約聖書続編付き』を読み終えた。中断を挟んでおおよそ四ヶ月。どういう形であれ「とにかく一度聖書を読み通すこと」を目標としてきたが、ひとまずは達成することができた。
新約聖書
『新約聖書』はキリスト教の正典。現代の世界を形作ったと言っても過言ではなく、その功罪を含めて今もなお大きな影響力を持ち続けている。
『新約聖書』には全部で27文書が収められている。どれも紀元後1~2世紀にかけて記されたものとされ、大筋は4世紀に、それから長い時間をかけて16世紀頃には現在の形で確定した*1。
内容は大きく三部に分かれている。主にキリストの生涯や教えを説いた四つの『福音書』と使徒たちの活動を描いた『使徒言行録』、パウロやペテロといったキリスト教指導者たち(半分以上は名前を借りただけ)の書いた『書簡』、そして世界の終末とその後の聖なる都とイエスの降臨を予告する『ヨハネの黙示録』。
今でも小説や映画には『福音書』のエピソードが引用されていたり、『黙示録』のモチーフが扱われていたりする。西洋、キリスト教圏の作品に限らず、信心の欠片もなさそうな日本人の創作にも数多く現れており、それだけ聖書は文化的に大きな影響を及ぼしてきたし、創作にインスピレーションを与えてきたのだ。
聖書の時代
『旧約聖書』がそうであるように『新約』もまた読み物として面白いが、やはり読むにあたっては前提となる知識を持っておいた方が良い。ひとまとめに『聖書』と呼ばれてはいても別に続き物ではなく、両者の間には数百年の隔たりがある。その間にパレスチナをめぐる状況は大きく様変わりした。
まず支配者の交代。ユダヤ人をバビロン捕囚から解放したペルシア帝国はすでにマケドニアのアレクサンドロス大王により滅ぼされ、そのマケドニアも分裂して四つに分かれ、特にエジプトのプトレマイオス朝とシリアのセレウコス朝が代わる代わるユダヤを支配した。その後は西のローマが台頭し、イエスが生まれたのはオクタヴィアヌスによる元首政が確立した時代のことだった*2。
そしてローマ支配下でパレスチナを統治していたのがヘロデ王だ。ハスモン朝滅亡後、ローマ帝国に忠誠を誓いパレスチナ支配を認められていたヘロデ王はパレスチナの地をよく治めたが、彼のローマ・ヘレニズム志向は敬虔なユダヤ教徒からは反感を持たれ、そして大祭司の家系ではないため王権の正統性には絶えず疑義が呈されていた。それにより引き起こされたヘロデの残虐性は、当時のユダヤ人たちには聖書に記述された「終末の光景」として映った*3。
こうした背景を知ると、例えば『マタイによる福音書』の冒頭に描かれるヘロデの「幼児虐殺」のエピソード(2章16-18節)は、その残忍さがイエス・キリストに向けられることで、イエスが真に「ユダヤの王」(2章2節)たる存在であることを強調する道具立てのように見える。そして三つの共観福音書*4に記された「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」*5という有名な言葉が、福音書が書かれた当時依然盤石であったローマの支配に対し、キリスト信仰者たちは無害であると予防線を張っているようにも読める。
もちろん聖書の言葉をそのまま受け止める原理主義的な人々も(未だに)存在する。しかし背景にある歴史を知り、文書の成立過程における人々の思惑を考えることで『聖書』は実に多様な読みが可能になる。そしてどれだけ「不都合な」事情を知ったところで文章から得られる体験が減じることはない。むしろ文書の背景にある様々な屈折を知ることで、聖書は手の届きにくい宗教文書から、自分(たち)にとって極めて「近い」書物へと変化していく。親しみやすいかどうかまでは分からないが。
イエス・キリスト
『新約聖書』は第一に「神の子」イエス・キリスト(Jesus Christ)の教えと活動を描いたものだ。とくに冒頭に配置された『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』という4つの福音書はそれぞれの視点でイエスの姿を描写している。
イエスの生涯に関しては無数の書物があるので知識を仕入れるのに事欠くことは無い。映像作品も多く、たとえばアマプラには『イエス・キリストの生涯』が配信されている。史実(とされるもの)と聖書のエピソードとが混ぜ合わされているので時折視点がよく分からなくなるが、章ごとにスポットを当てる人物を変えているのと、当時のローマ帝国とユダヤ人祭司たちとの駆け引きなどにも言及されていて面白い。
イエス・キリストは紀元前6~4年頃にエルサレム南の村、ベツレヘムで大工の子として生まれた。ただしこれは「メシアはダビデの末裔から出てこなくてはならないという…メシアイデオロギー*6」による創作の可能性が高く(ダビデはベツレヘム出身)、実際にはガリラヤ地方(パレスチナ北部)のナザレ村で生まれた可能性が高いようだ。
イエスは先に活動していた洗礼者ヨハネの弟子となり教えを受け、ヨハネがヘロデに処刑されるとその後継者として活動するようになる。
ヨハネの終末論的宗教観を受容したイエスが唱える「神の国」の思想(不義や差別のある人の世を超えた世界*7は特に貧民や没落階級、そして重病者たちを惹きつけた。当時病(特に皮膚病)に犯されることは「「罪」の故であるとされ、差別と排除の対象になった*8」。旧約聖書には神による罰として皮膚病の描写が多数あるが、新約聖書においては反対にイエスがそうした患者を「癒す」描写が多く見られる。被差別民であった病者たちにとって、誰もが分け隔てなく救済されるというイエスの思想は確かに救いであっただろう。
しかしそれは同時にユダヤ律法的な「罪」の概念に対する挑戦でもあり、ゆえに支配階級はイエスを警戒し、彼を逮捕・処刑した。当時(30年頃)の支配者ヘロデ・アンティパス、そしてユダヤ祭司たちの危機感によるこの行動が、後の世界に大きく影響することになった。
聖書の中のキリスト
『新約聖書』冒頭に置かれている四つの福音書は、それぞれに同じイエスという人物を描いているが、共通する部分もあれば微妙に異なる箇所、あるいは意図的に改編、差をつけた箇所が散見される。
たとえばもっとも初期に書かれた『マルコによる福音書』では、イエスについてのエピソードは分量が少なく簡潔に記述されている一方、ペテロに対してイエスが「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」*9と叱るシーンが唯一存在する。ここには『マルコ』に含まれた「聖霊主義」(神との直接のつながりのみを重視する立場)と、相容れないペテロやエルサレム教会への批判が含まれているという。*10
またペテロがキリストから「天の国の鍵」を授けられるエピソードは、明確に描かれているのは『マタイ』だけだ*11。 イエスはこの時「私はこの岩の上に私の教会を建てる」とペテロに言うが、当然この言葉は教会の権威を保証するものとして利用されただろう。『マタイ』にはユダヤ律法的教義と決別し、新たなキリスト教としての「掟」を掲げ、神とキリストとのつながりを強調する傾向が見られる。そこにはまた一つのキリスト教立場から、自分たちの立場・主張を肯定しようとする意図が窺える。
『旧約聖書』がそうであったように、『新約』も全ての文書を同じ人物が書いたわけではない。そのため文書ごとにそれぞれの思想があり立場があり、一冊の書物として「ひとつのまとまりをなしているが、内部では厳しい対立がある」*12。これは自分が実際に聖書を手に取るまでずっと勘違いしていた点で、同時に最も面白いと思った部分だった。
変容するキリスト教
特に初期キリスト教の伝道者として有名なパウロは、キリストの直接の弟子であったペテロたちと袂を分かち(「アンティオキア事件」後49頃)、その後は独自に活動している。キリスト教は別け隔ての無い人類愛を説くと思われているが、当時エルサレム教会のリーダーだったヤコブ(イエスの兄弟?)は異邦人との会食(共卓)を禁止し、反発したパウロは主流から外れることになった*13。パウロは『使徒言行録』の中で悔しさの垣間見える心情を吐露している(これを記したのはルカとされる)。
あなたたちの血は、あなたたちの頭に振りかかれ。今後、わたしは異邦人の方へ行く。
─『使徒言行録』18章6節
しかし後世キリスト教が成立して行く中で、中心となったのは当初「異端」であったはずのペテロの主張──ユダヤ人以外の異邦人も同じようにキリスト教徒になれるし神に救われることができる──だった。
要因としてはローマ支配下のユダヤ戦争(66-70)によるエルサレムの崩壊により弱体化・消滅の危機に陥ったキリスト教会が、より効率的に信徒を増やすための方法を模索する中で、改めて(ちょうど良いやり方として)ペテロの考えに目を向けたことが考えられる。
結果的にこの方針転換はキリスト教を生きながらえさせることになった。そしてローマ帝国もまた衰退の潮流の中、帝国をまとめるための「ちょうど良さそうな政策」の一つとしてキリスト教を国教に定めることになる(コンスタンティヌス的教会313)。
歴史の偶然、必然が複雑に絡み合い、結果としてキリスト教を世界宗教として存続させることになる。そして人文・科学・啓蒙思想が広がるルネサンス期まで教会は絶大な権力を握ることになる。そこには「厳格な一神教」というイメージに比して実は相当に柔軟・戦略的なキリスト教の変化が理由の一つとしてあった。
自分なりの「聖書の読み方」
「聖書の読み方」を考える時、テキストだけを抽出して精読していくやりかたがある。歴史と切り離して考えても、たとえば『福音書』の「たとえ話」や『書簡』に見られる人生に対する心構えの文句には今でも頷けるものが多い。『黙示録』が一種の謎解きゲームとして想像力を刺激するのは言うまでもない。
しかし聖書の通読をひとまず終え、自分としてはオリエントからヘレニズム、そしてローマの興亡という長い歴史の中で生み出された一つの結晶として聖書を捉えるようになった。旧約続編を読んだ時に思ったユダヤ人の「分裂傾向」は、新約聖書の時代にも続いている(あるいは歴史上もっとも「分断」という言葉が、全人類的に使われる現代においても)。それは一つの国が生まれて分散し、やがて消滅するのにもよく似た生命のダイナミズムだ。そして『聖書』はそれ自体がひとつの生き死にする生物であり、また繁栄と衰退を繰り返す人間・民族の生死を映しだす鏡のように思えるのだ。
読み物としてはもちろんとても面白かった。これから先も再読したり、他の様々な訳にあたってみたり、英訳などにも手を伸ばすことがあるかもしれない。そうした中でもおそらく、自分はマクロにもミクロにも『聖書』を一つの生命として考えるだろう。ユダヤ教・キリスト教という枠組みを超え、人間や世界の普遍を表した(表そうとした)素晴らしい書物として。
- 作者:共同訳聖書実行委員会,日本聖書協会
- 発売日: 1996/01/01
- メディア: Vinyl Bound