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【読書】『ウェイクフィールド』 ホーソーン

 ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne)は19世紀前半に活躍した、いわゆるアメリカン・ルネッサンス(American Renaissance)の代表的な作家。ウェイクフィールド(Wakefield)』(1835)は彼の短編における代表作。

 日本でホーソーンといえばまず『緋文字(The Scarlet Letter)』(1850)で、他に選ぶとしたらおそらく『ウェイクフィールド』だろう。単に重要な作品ということもあるし(ボルヘスホーソーンの短編最高傑作としている)、名のある文学者がこぞって取り上げていることもあって、要は好きな人が多い。

ウェイクフィールド

 1835年5月『ニューイングランド・マガジン』発表、37年作品集『Twice-Told Tales』に収録。

 冒頭、語り手はこの話を古い新聞か雑誌で目にしたことがある実話として、主人公を仮にウェイクフィールドと名付ける。この話には「人間一般の共感に訴えるものがあり」、そして「印象的な出来事には教訓があるものだ」と、まるで寓話を語るような調子で物語は始まる。

 ウェイクフィールドは善良で愛情深い夫であり、知性はあってもそれを働かせることは少なく突飛な行動など絶対にしない、平凡を絵に描いたような人物だった。

 しかしある時彼は妻に偽って旅行に出ると言って出掛けたまま、そのまま二十年間帰らなかった。彼はその間ずっと、隣の通りの建物に住んで妻を観察し続けていたのだ。

 二十年の間彼が妻と全く会わなかったわけではない。彼は鬘を被り変装して妻と何度かすれ違ったり、時には体に触れて至近距離で見つめ合ったりもした。しかし結局妻が彼に気付くことはなく、ウェイクフィールドは自分が社会の外にいて、一方的に他人を観察することができるが、一方で他人に影響を及ぼす力を失ってしまったことに気付く。

 最終的にウェイクフィールドは失踪からちょうど二十年目のある秋の夜に突然帰宅し、そのまま終生愛情深い夫として過ごしたという。

 語り手は、この世界の体系(system)に組み込まれた人間は一度そこから外れてしまうと永久に自分の居場所を失い、「宇宙の追放者(the outcast of the universe)」になってしまうのだ、と説いて物語を閉じる。

a little strangeness

 ウェイクフィールドは平凡な人間だが、小説内では彼の「ちょっと変なところ(a little strangeness)」が何度か指摘される。妻が彼の中に見る利己心(selfishness)や虚栄心(vanity)、そして狡猾さ(a disposition to craft)などがそれだ。語り手はウェイクフィールドの凡庸さを疑わないが、上記のような彼の「変なところ」が、「人間には御しえない影響力」や「環境」と合わさることで、異常な事態を引き起こしたとする。

 連想されるのは、ホーソーンの祖先も関わっていたセーレムの魔女裁判だ。17世紀の終わりにマサチューセッツ州で起こったこの事件は、まさに「普通の人々」が誰しも持つ恐怖心や猜疑心、狡猾さ、あるいは信仰心が時代の様々な状況と混ざり合って引き起こされた悲劇だった。

ウェイクフィールド』の中では繰り返し「運命fate)」という言葉が使われる。物語の背後に人智を超えた意志の存在を見るのであれば(語り手は時に神のように、主人公を導き諭すような言葉をかける)、物語としての整合性や一貫性を欠く構成にも意図を見い出せるだろう。ウェイクフィールドという人物を通して、ホーソーン人が時に自ら御しえない力によって破滅を引き起こす様を描いているのだ。

曖昧な世界で

 この小説が「何か変な話」であることはあらすじだけで分かるが、変なのは話の筋だけではない。この短篇には小説を肉付けする細部がまるで無い

 そもそも冒頭の語りからしてどこかおかしい。「とある古い雑誌だか新聞だかに、実話だという(told as truth)ある男の話が書かれていた──男をウェイクフィールドと呼ぶことにしよう( ...let us call him Wakefield.)」と、実話として提示されるもののその実出典も物語の背景も、そしてウェイクフィールドという名前すら仮のものでしかなく、全てが初めから曖昧なのだ。

 彼が隠れて過ごした二十年間も、資金や生活の様子など具体的な所は語られない。小説は徹頭徹尾ウェイクフィールドという男の性格と、行動の顛末を説明するだけだ。

 この曖昧さを踏まえた上で、これを物語る語り手は果たして何を語ろうとしたのだろう。

 冒頭に述べているように、語り手は「人間一般の共感に訴えるもの」があるとし、その通り最後も教訓的に閉められる。しかし教訓を示すにしてはまずもって設定が突飛過ぎるし、ウェイクフィールドの内面、特に帰宅を決めた過程があまりにも漠然としている。彼が帰宅したのはいつも通り散歩に出てふと自宅の天井に映る妻の影を目にし、突然の雨風の寒さに打たれた後だが、そこに論理性を読み取ることはできない。この小説において物語の整合性や必然性、説得力などは投げ捨てられているのだ。

 小説としての体裁を欠くこの短篇は、細かい一点から読むととても深く語り甲斐があるのだが、全体を見ようとすると途端にその不完全さが目立ち、本質がぼやけて見えてしまう不思議な作品だ。

 しかしこの不安定な感覚は誰しもが現実生活において多かれ少なかれ抱いている普遍的なものであり(それを社会システムの歪さとして提示したのがカフカだ)、ホーソーンこの世界の宿命的な不完全さを、小説としての瑕瑾に構わず生身の感覚まま抜き取っている。

孤独と孤立

 この物語はホーソーン自身の経験と照らし合わせるとより興味深い。

 ホーソーンは大学卒業後のおよそ12年間(1825~37)を実家の屋根裏で過ごし、ほとんど人と関わらずに読書と創作に打ち込んでいる。この『ウェイクフィールド』もその時期に書かれたものだ。であれば当然、社会から逸脱したウェイクフィールドを、ホーソーン自身と重ねることができる。

 そしてウェイクフィールドホーソーンも、共に自分のかつて属していた場所へと戻り、世界と再び繋がることを選んだ。そしてまだ伝記的な事実が存在するホーソーンと違い、小説の人物として細部をそぎ落とされたウェイクフィールドの行動には、ほとんど宿命とも呼ぶべきものがある。それ以外の選択肢が無かったかのように、彼は自分の家へと戻っていく。

 彼らを帰還へと後押ししたもの、それは「孤独」そして「孤立」だろう。

「孤独」は時に大切なものだ。一人静かな環境に身を置き外の世界と距離を置くことで、人は心を落ち着かせ、安らぎ、深く考えることができる。特に現代においては否応なしに入ってくる膨大な情報を整理する時間が必要だ。

 ゆえに「孤独であること」は、「外界と関わりを持たない」ことではない。むしろより良く外界と関わるためにこそ、人は孤独を必要とする。恐ろしいのは、外界との関わりを失った状態になる、つまり世界の体系から離れてしまうこと、「孤立」してしまうことだ。

 孤独と孤立の間には、大きな断絶がある。真に孤立した人間は、ウェイクフィールドがそうであったように、この世界の誰からも認識されることがなくなる。それはつまり、生きていないのと同じだ。

ウェイクフィールド』は状況を歪に誇張して設定することで、孤立した状況に置かれた人間の空しさを示している。そしてその状況から世界へと帰還する姿を見ることで、我々は逆説的に孤独を評価することができる。

 人との、世界とのつながりが無ければ、人は孤独になる事さえできないのだから。

こういう時代なので

  去年書いたまま放置していたけれども、コロナの影響の中で自然とこの話を思い出したので、ちょっと飛ばし気味に書き直してみた。

 コロナによってひきこもる生活を余儀なくされ、(直接)人と触れ合わないことの寂しさを感じた人も多いだろうし、反対に他人と距離を置くことの価値を改めて見出した人も多いのではないか。

 たとえコロナが完全に収まっても「コロナ以前」の生活がそのまま戻ってくることはないだろう。ネット記事にはこれからの生活、働き方について様々な意見、提言がなされているが、あるいはこうした変な物語を通して繋がりの意味を考え直してみるのも有益…かもしれない。

 

  翻訳は複数出ているが、読みやすいのはやはり柴田元幸のもの。酒本雅之訳が『バベルの図書館』に入っているがこちらも良い。手に入り易いのは岩波文庫版だが、訳文がこなれておらず少々読みにくい。

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)

人面の大岩 (バベルの図書館 3)

人面の大岩 (バベルの図書館 3)

 アメリカン・ルネッサンスについて。読み直すと乱雑に過ぎる。

 ゲーム『デス・ストランディング』。「つながり」をテーマとするこの作品は、まるで今の状況を予見していたかのようだ。