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【読書】『カンガルー日和』 村上春樹

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

中国行きのスローボート』『夢で会いましょう』などと同じく、『1973年のピンボール』から『羊をめぐる冒険』の時期にかけて書かれた短編+エッセイ。これだけ書きながら長編もコンスタントに発表していたわけだから80年代の村上は多作だった。

時間が作り出し、いつか時間が流し去っていく淡い哀しみと虚しさ。都会の片隅のささやかなメルヘンを、知的センチメンタリズムと繊細なまなざしで拾い上げるハルキ・ワールド。ここに収められた18のショート・ストーリーは、佐々木マキの素敵な絵と溶けあい、奇妙なやさしさで読む人を包みこむ。

──講談社文庫 内容紹介 

初期作品の中にある作家のマテリアル

 内容としては『夢で会いましょう』と同じく少し肩の力の抜けた短編が主で、時折随想風のエッセイが挟まれる。といっても前者が共著であったこともあって徹底して「遊んで」いるのと比べ、こちらはしっかりした(要はいつもの)村上節が楽しめる。

 どれも今読んでも色あせない短篇で、また以降に続くモチーフが頻出しているのも特徴。村上はエッセイかインタビューかで、「短篇は一つのマテリアルを膨らませて書く(書ける)」ようなことを確か述べていて、その通り長編作品と比べてより鮮明な形でモチーフがはっきり現れている。

 村上にとって短篇は実験室であり、小さなモチーフ、アイデアを使っていったい何が書けるのかを(おそらく楽しみながら)試しているのだろう。だから短篇は時に(「ムラカミワールド」という免罪符をもってしても)突飛な展開を見せるし、何だかうまくまとまらないままあっけなく終わってしまうこともある。

長編小説が生まれる過程

 三作目の長編『羊をめぐる冒険』につながる『彼女の町と、彼女の緬羊』もその一つで、これは言ってしまえばあの長編を8ページでまとめてしまおうとした試みだ。もちろん設定は全く異なる部分が多く、「僕」は羊を探しに行かないし、友人とは別の道を歩んでいるし、「彼女」との出会いもない。「…僕と彼女の人生はふと触れ合っている。しかしそこには何かが欠けている。」(下線部本文引用以下同)ためにそこに物語の展開は無く、「…既に、あまりに多くのものを捨ててしまった」僕はその虚無の中、どこにも戻れないという不安を抱えたままただ一人、ホテルの部屋で外に降る雪を眺め続ける。探されることのない百頭の緬羊たちは「闇の中でじっと目を閉じている。

 これは『羊をめぐる冒険』が書かれなければ意味をなさない物語だ。しかし現実に『羊』は書かれたのであり、書かれなかったという世界線は存在しない。まさにこの短篇は『羊』を書くために書かれたマテリアルだった。

 百頭の緬羊という長編物語が、村上によって探しだされることを待っていた。村上はその物語と自分との触れ合いを求め、ついに「どこかに行ける」という確信を得て小説に取り組み、完成させた。つまり村上は、これを長編にできるという確信が生まれる前に、すでに長編として書き出していた

 妄想先走りだが、結果的に長編『羊』はこの短篇の設定を様々に発展させ、ときに反転させることで出来上がっている。それは作家が物語を思いついてからそれを形あるものに構築している作業過程を見ているようで、その意味でこの短篇はとても面白いのだ。たとえ単体ではほとんど意味をなさないとしても。

若き日の作者の肖像

 他にも初期の、つまり若い頃の村上の性格を垣間見られる好編がいくつもある。

 自分の中にある別の自分、例えば人が意識せず内包している「悪」を提示する『』、目的地も見いだせずに発展していく社会にいつか崩壊が訪れることを予言する(「君たちは崩れ去るだろう」)『5月の海岸線』、芥川賞を取れなかった憤懣やるかたない思いをぶつけた『とんがり焼きの盛衰』(あくまで個人の妄想です)など等。他の短編もそれぞれに孤独や喪失、成熟あるいは未熟など、読み取ろうと思えばいくらでも深読みできる、懐の深い作品が収録されている。

 昔はよく社会と関わらないスカした野郎みたいな印象を持たれ(想像です)、そのせいかどうにも文壇からは嫌われ自分からも距離を置いていた村上だが、彼は彼なりのやりかたで社会と自分との関わり方、距離感、ときには批判や要請を表明していたことがわかる。

 例えば六回にわたる『図書館奇譚』を、人々から一方的に税金を巻き上げて甘い汁を吸う政治・官僚機構の戯画として読むことは可能だと思うし、それをムクドリが破壊するのも示唆的だ。この作品には「地下」「井戸」といった村上作品には頻出のワードも登場し(もちろん「羊男」も)、とにかく思いつく限りの要素を放り込んでかき混ぜている。それを今でこそよく口にしている「総合小説」への試みの兆しと読むのも、あながち間違いではないと思う。

 またこの作品には絵本版マンガ版も出版されており、この作品のエッセンスに魅力的なものがあるのは確かなのだろう。

ふしぎな図書館 (講談社文庫)

ふしぎな図書館 (講談社文庫)

図書館奇譚

図書館奇譚

 最初に誰が言ったのだったかは覚えていないが、この頃「作家の本質は初期作品に現れる」という言葉をよく思い出し、それは真実だと思う。そしてその視点から村上春樹ポール・オースターなどを年代順に再読している。そして初めて読んだ十数年前には気付かなかった、今や大作家となった両者の原石のように輝くマテリアルが初期作品にすでに現れていたことを遅ればせながら(遅すぎる)発見している。

 これまでの自分の読みの迂闊さを反省するとともに、両者の作品世界の豊穣さを改めて認識し、作家が作品を作り出す過程、そしてその行為の奥にある苦しみや葛藤をわずかでも垣間見ることができればいいと思う。