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【読書】『羊をめぐる冒険』その1 村上春樹

 村上春樹初期の代表作『羊をめぐる冒険』を再読。

 学生時代に初めて読んで、それから作品に関する何かを読むごとに時々ぺらぺらとページをめくってみたりもしたが、通しで読むのはおそらく三度目くらい。

野間文芸新人賞受賞作
1通の手紙から羊をめぐる冒険が始まった 消印は1978年5月――北海道発
あなたのことは今でも好きよ、という言葉を残して妻が出て行った。その後広告コピーの仕事を通して、耳専門のモデルをしている21歳の女性が新しいガール・フレンドとなった。北海道に渡ったらしい<鼠>の手紙から、ある日羊をめぐる冒険行が始まる。新しい文学の扉をひらいた村上春樹の代表作長編。

 自分が持っている文庫本(上巻、97年34刷)の値段を見たら388円+税でちょっと驚いた。アマゾンで見ると現行の文庫本は定価605円だから、本の値段もずいぶん高くなったなぁと思う。

村上初の本格長編

  自分が村上作品で一番好きなのは『ねじまき鳥クロニクル』で、今出ている全作品を通しても物語、文体、メッセージ性がもっとも高度なレベルでまとまっていると思う(これから再読するつもりなので、また評価は変わるかもしれない)。

 それに比べると『羊』には当時そこまで惹かれなかったと思う。デビュー作の文体をわずかに引きずっていてまだ今の洗練のレベルに到達していないこともあったのだと思うが、それ以上に物語をメタファーとして捉える村上の手法がまだ「分かりやすさ」との間で揺れ動いていたからだと思う。もちろん『ねじまき鳥』だって分かりにくくはあるが、『羊』はたとえ「分かった」としてもなんだか釈然としない思いの方が先に来てしまう。

 今回じっくり読み直してみて、この作品で村上が前二作からはっきり変わろうとしたところと、そうでない(変わってはいけない)部分とがわずかだけ見えてきた気がする。物語を辿りながらそれを自分に対して明らかにしていきたい。

冒険が始まらない

 物語の中で、実際に「羊をめぐる冒険」が始まるのは第四章からだ。

 第一章は「水曜の午後のピクニック」。「僕」のかつての知り合いの女性が交通事故で亡くなり、その葬儀に参列する。「名前は忘れてしまった(下線部本文引用、以下同)」という彼女のことを僕はいくつかのエピソードと共に思い出す。1970年11月25日の思い出は章のタイトルにもなっている。

 彼女は「僕」が何かを抱え込んでいるのだろうと思いそう問いかける。それに対しての「僕」の答えは、この先の物語にずっとついて回る呪縛のようだ。

「べつに心を閉じているつもりはないんだ…何が起ったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でもそれには時間がかかるんだ」

 この後二人はアパートに行き夜を過ごす。夜中に彼女は泣いた後「誰かに殺されちゃうのも悪くない」と言い、実際に八年後に死んだことが記される。前には同日に割腹自殺した三島由紀夫の名前が出され、この章全体に死の気配が漂っている。

 再読を終えた後で思うのは、上に引用した部分はただ当時の思い出というだけでなく、物語が終わった後に再び彼女に問いかけられているように読めるということ。あくまでメタな捉え方ではあるが、実際小説は語り手が「僕」で全てが終わった後に語り始めているのだろうから全くおかしな読解でもない。大事なのは、「冒険」を経た後で僕が陥った空虚のように、あれだけの遠回りをしながら「僕」は八年前の地点からほとんど動いていなかった、動くことができなかったということだ。

 続く第二章でもまだ羊は登場しない。代わりに再び女性、今度は離婚する妻と自宅アパートで対面する。前作『1973年のピンボール』に登場した翻訳事務所の事務員。1978年7月のこと。

 冒頭から「とっくに消えてしまった」海のイメージによって、喪失を予感させる。そして妻は事故死した女の子と同じように涙を流している。

 妻の「僕」の人となりの表現が面白い。「砂時計と同じね。砂が無くなってしまうと必ず誰かがやってきてひっくり返していくの」。これは事故死した女の子(誰とでも寝ると言われていた)と「僕」との間には肉体関係は無かっただろう、という妻の推測とその根拠だ(実際には「僕」は女の子とセックスをしている)。

 引用部分は今書きながら、砂の落ち切った砂時計のように落ち着くことのない人間と言いたいのかなと思う。「誰かがやって来て」の部分が象徴するように、「僕」は自分自身の意志ではなく、外的な何かによってふらふらと動いていってしまう。妻がそうであったようにそんな男に惹かれることがあっても、長く関係を結ぶことはできない。「あなたといっしょにいてもどこにも行けないのよ」と。

 離婚に至ったことについても、「僕」は責任を感じてはいても、「結局のところ、それは彼女自身の問題なのだ」と他人事のように構えている。この常に傍観者であろうとする態度は、この先「あなたには何もわかっていない」と色々な人にことあるごとに非難を受けることになる。当事者であることを拒否する探偵。それが『羊』における主人公の立ち位置だ。

まだ始まらない

 第三章に入って少し動きがある。1978年9月

我々は鯨ではない」。性生活を例にとって、人間は行為に意味を見出す存在であると「僕」はこのように表現する。子供の頃通った水族館には鯨の切り取られたペニスが展示されており、「僕」はそこに「何かしら説明しがたい哀しみ」を感じ、高校生の頃初めてセックスを経験したときもこれを思い浮かべ、「救いなんて何一つないような気がした」。

 その時はまだ「すべてに絶望するには明らかに若すぎた」と思ったが、今「僕」は自分をどう捉えているだろう。

 この章では三つの職業を持つ女が登場する。出版社のアルバイト校正係、耳専門の広告モデル、そして高級コール・ガール。彼女は特にその特別な耳でもって「僕」を魅了した。

 広告の仕事を通じで彼女にコンタクトをとった「僕」はその耳に惹かれたことを熱心に説明する。この説明が小説全体を表現しているように思える。

「僕が角を曲る…すると僕の前にいた誰かはもう次の角を曲がっている。その誰かの姿は見えない。その白い裾がちらりと見えるだけなんだ。でもその裾の白さだけがいつまでも目の奥に焼き付いて離れない」

 こういう「感じ」と表現するそれは、「漠然としていて、しかもソリッド」。冒険の真相を知るときに感じる、「全体としては荒唐無稽なのに細かい部分がやけにはっきりしている」という感覚とほぼ同じだ。彼女とその耳は「僕」の生活に新たな段階をもたらす福音のように思えて、実のところ先に待ち受ける喪失を予言していた

 彼女は「僕」についての話を聞くと、「あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたじゃないか」、「あなたの退屈さはあなたが考えているほど強固なものじゃないかもしれない」と、「僕」が気付いていない違う側面があると指摘する。「僕」は「自分自身の半分でしか生きてない」とし、そんな「僕」が自分を求めたのだと言う。明らかに彼女は「僕」に差しのべられた救いだった。けれど「僕」にはそれが分からなかった。

 彼女は「羊」に関する電話がかかってくると予知し、果たしてそれは事実となり、ついに「羊をめぐる冒険」が始まる。

 ここまでは前二作の文体、雰囲気を踏襲しているが、この先は探偵小説、ハードボイルドの雰囲気が強くなる。これまでの小説から一歩前に踏み出そうとする村上の変化が感じられるのだが、長くなるので次回に続く。冒険は始まらなかった。

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)