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【読書】聖書を読む・旧約聖書【映画】

 少し前にドストエフスキー罪と罰を読み返して、一緒に解説書(江川卓『謎解き『罪と罰』』)も手に取った。

カラマーゾフの兄弟の有名な大審問官の章など、ドストエフスキーの作品にはキリスト教や聖書からの引用、モチーフが数多くある。解説書にはそうした聖書からの細かい引用や象徴が(ほとんど重箱の隅をつつくように)示されていて、改めて西洋文学の根底には聖書があることを意識させられた。

 というわけでこれを機会に聖書を一度通読することにした。ずっと読みたくはあったのだが、人生にはある日突然きっかけが訪れるものだ。

初めて聖書を読む

 これを書き始めた時点ではまだ旧約聖書(本編)すら読み終わっていない。聖書はとにかく分量が多く、今回テキストとして選んだ『新共同訳 聖書(旧約聖書続編つき)』日本聖書協会)で約2500ページ(上下段組み)ある。

 聖書の日本語訳はいくつかあるが、訳文への評価と手に入り易さを考えるとやはりこれが一番いい。岩波から細かい注釈のついたヘブライ語からの翻訳が出ているが、なにぶん冊数が多いので(分冊で20巻、合本版でも5巻)断念。

 今回は1987年の新共同訳を選んだが、2018年に新たに聖書協会共同訳が出版されている。

 大貫隆は新共同訳は「朗読に適し」、岩波版は「研究に最適」と評している*1

 大部かつ複雑な書物なので、本文を読む前に入門書、参考書をいくつか手に取った。さすが世界最大のベストセラー(年間3千万冊!*2)ともあって解説書の類も豊富。

 まともに聖書本文に当たったのは初めてなので、読み進めるとそれまでに抱いていた印象が大きく変わることもあったし、また思っていた通りのこともあった。そして今もなお読み進めながら思うのは、聖書は読み物として非常に面白い。そして様々な示唆に満ち、多様な読み方ができてとても懐が深い。

 西洋文化は聖書から多くのものを引きだしてきた。文学はもちろん、絵画や彫刻といった美術、そして音楽、現代では映画など、数えきれないほどのインスピレーションの源泉として聖書は常にあった。「聖書は、西洋のまさに枕頭の書であった*3」のだ。

 聖書について

 当たり前のことを説明しておくと、聖書は旧約聖書新約聖書の二つに分かれ、そこに外典(Apocrypha)と呼ばれる文書が挟まれる(何を正典・外典とするかは宗派によって異なる)。またそこに含まれない偽典(Pseudepigrapha)もある。

 旧約聖書ユダヤキリスト教共通の聖典であり、新約聖書キリスト教聖典である。宗教界のスーパースター、イエス・キリスト(Jesus Christ)が登場するのは新約聖書の方であり、セシル・B・デミルの名画十戒ジョン・ヒューストン天地創造などでお馴染みのスペクタクルが展開するのは旧約聖書の方。

「旧約」「新約」というのは神との契約を指し、「旧約」はユダヤイスラエル)の民が最初に結んだ契約(律法やメシアの到来の約束)であり、「新約」はキリストによりメシアの到来が果たされ、かつての契約が成就したという意味の呼び方。だから基本的にこの分け方はキリスト教徒によるものだ。

 ユダヤ教徒はキリストをメシアと認めていないため「旧約」は今も続いているという立場を取る。だから彼らは聖書を「旧約聖書」ではなく「タナッハ(タナハ)Tanakh」と呼ぶ*4。これは聖書を大きく三部に分け、それぞれの頭文字を並べたもの。

 一方キリスト教旧約聖書においてすでに「新約」が予告されているとして、その中の様々な箇所に予兆を読み取る*5ユダヤ教からしたら面白くないだろうが、キリスト教自体ユダヤ教からの分派という出自を持つので、そうことにもなるのだろう。

 ただ聖書を「一読者」として読むとき、そこに何らかの「予言」や「予型」(キリスト教の立場から旧約聖書を解釈し、文書の中にキリストや救いの兆しを見る)を頭の片隅に置いておくと、一見煙に巻かれるような啓示的な文句が具体性を帯びて読みやすくなる。もちろん定説とされる解釈を学んでいくことも大事なのだが、初学者にとって何らかの「とっかかり」は助けになる。

旧約聖書を読む

 旧約聖書本編に描かれているのは天地創造からバビロン捕囚からの解放(前538)を経てローマによる支配(ハスモン朝の滅亡、前37)までだが、歴史書の形で順に語られているのは預言者ネヘミヤが活動した前五世紀の半ば(ペルシア支配時代)までで、以降の時代の話はいくつかの予言書で断片的、暗示的に示される。

 全体の流れは周知の通り、神による世界の創造に始まり、「最初の人間」アダムイヴが知恵の実を食べたことによりエデンの園から追放され、地上での人類の生活が始まる。そして後のイスラエル12部族の始まりとなるヤコブを経て、ヨセフの導きによりイスラエルの民はエジプトへと行きつく。そこから預言者モーセに率いられた「出エジプト」と荒野の放浪という苦難の時を耐え、ついに民族は約束の地カナンへとたどり着く。

「歴史書」としてはその後、イスラエル王国の誕生から分裂、そして新バビロニアによる征服とペルシアによる解放までが特に描かれることになる。

 これらの文書は一人によって書かれたものではなく、数百年以上のスパンで、しかも数多くの人々によって書き継がれてきたため、文章のスタイルや雰囲気がそれぞれに異なる。そしてそれは「途方もなく多様な文学ジャンルに適合*6」し、様々な文体や表現の見本市のようになっている。

 神話から物語へ、賛美歌から黙示録まで、それはあたかも人間精神の進化(変化)の過程を見ているようでもある。この世界を創り出し、苦難から民族を救い出した神を讃え、そして国の滅亡と捕囚というさらなる苦難の下で民族としての共属意識を確かめるために、多くの人々によって神の存在とその言葉が語り伝えられた。

 そうした歴史の物語は必ずしも「史実」と合致しているわけではなく、描かれているのは「起こったと信じられている出来事や経過についての後代の信念と解釈*7だ。そして聖書を読むことは、その中の「それぞれの文書を描いている人間たちの経験と思考を理解すること*8」なのだ。たとえ現代の、しかも信仰を欠片も持たない異国人でも、そのような態度で臨むことで、神の元に救いを求め今も求め続ける人々を知り、想像し、理解する(しようとする)ことができる。

聖書につまづく

 いわゆる神話的な物語を求めて『創世記』から順に読んでいくと(ギリシャ神話や『古事記』を読もうとする感覚に近いだろう)、大方出エジプト記の終盤、あるいはレビ記あたりでつまづくことになる。というのもモーセが神より十戒を授かると、そこから様々な決まり事が延々と語られて、話が全く進まなくなるからだ。

 これはそもそも聖書が、「律法の順守を中心とする捕囚後の教団民族の宗教生活の秩序づけ*9」のために編集された書物だからであり、バビロン捕囚によって文化を奪われたユダヤの人々に、改めて神の下で団結するために様々な戒律=律法を教えるという意図があったからだ。

 聖書を読んで初めて理解したのは、これは「神話集」ではなく宗教の「聖典」であるという、実に当たり前の事実だった。

 そしてそれを知ることにより、詩編や各預言書など、一見取っつきにくい印象のある文書に対しても少しは親近感、あるいは想像力をもって臨むことができる。

 王国最盛期を支えたダビデの栄華を歌う『詩編』には、同時に王国崩壊後の視点から世界や人生の儚さや空しさが語られる。 そして捕囚の苦しみを嘆きつつ、ただひたすらに神を讃え(ハレルヤ=Hallelujah)、救いの時を待つ。そこには常に神があり、国があり、そしてイスラエルの民族がある。

人間は栄華のうちにとどまることはできない。

屠られる獣に等しい。

─『詩編』49章13節

わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか。

─同、22章2節

バビロンの流れのほとりに座り

シオンを思って、わたしたちは泣いた。

─同、137章1節

 長い時間をかけて綴られてきた祈りの文句は、時代ごとに順番に並んでいるわけではない。それでもある程度の知識を持つ読者なら、そこに一貫して存在する祈りの声を聴きとることができるだろう。

エルサレム、都として建てられた町。

そこに、すべては結び合い

そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。

─同、122章3-4節

涙と共に種を蒔く人は

喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

束ねた穂を背負い

喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

─同、126章5-6節

 それは亡国に当たって神の救いを求める嘆きであり、時代を下ればメシア(救い主)の待望である。しかしそれらの背後にあるのは、様々な苦難によって各地に散らばった民族の同一性をどうにか保ちたいという願いなのだ。そして同じ神を心に抱き、いつかの帰還の日を夢見て祈りの文句を唱える時、イスラエルの民は民族として一つにまとまっていた。少なくとも祈りを捧げる人々は、そう思っていたのだろう。

『なんという空しさ、すべては空しい』

 さすがに最初から逐一感想を述べていくわけにもいかないので、特に興味を惹かれた部分を。

 ギリシアで学んだ人物によって書かれたと思われる『コヘレトの言葉』(紀元前3世紀半ば頃?)は、脅しにも似た警句の多い旧約文書のなかでも異彩を放つ。

 コヘレトは言う。

 なんという空しさ

 なんという空しさ、すべては空しい。

 ─『コヘレトの言葉』1章2節

 太陽の下、新しいものは何ひとつない

 ─同、1章9節 

 神の偉大さを謳う文書の中、『コヘレトの言葉』はただ人間の無力を繰り返す。

知恵が深まれば悩みも深まり

知識が増せば痛みも増す。

─同、1章18節

 ユダヤ教はこの世界を創造した神を讃えるが、そこには人はどれだけ努力してもその全てを知ることは叶わないという現実が横たわっている。

神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。

...それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

─同、3章11節

 神は偉大だ。ゆえに人は神を崇拝する。しかしその服従は決して届かない夢を見続けるにも等しい苦しみとの交換でもある。

 この世でどれだけ善行を積んでも、悪人と同じように死は平等に訪れる。それに対して神から答えは与えられない。ならばこの世における営みとは全て無駄なのではないか?

 しかしこの「知恵の書」は、そうした空しさを抱えて、つまり自分の分をわきまえて生きることをこそ良しとする。

神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で苦労した結果の全てに満足することこそ、幸福で良いことだ。

─同、5章17節

 生きることの空しさ、無意味さを知り、「にもかかわらず」神を信じて与えられた日々を生き続ける。激しい口調で神への服従を迫る預言者たちとは異なる、そうした少し(振り返る程度のわずかな)後ろ向きの穏やかな信心を諭す言葉は、様々な奇跡や黙示に満ちた他の文書にもまして心に残る。

映画『エクソダス 神と王』リドリー・スコット

 今のところ直接的に旧約聖書を扱った大作映画としては(おそらく)最新のもの。監督は巨匠リドリー・スコット、主演はクリスチャン・ベール。『マネー・ショート』(2015)以来に見たが、良い感じに年を取って貫禄があった。またヨシュア役のアーロン・ポールがイケメン。

エクソダス 神と王 (字幕版)

エクソダス 神と王 (字幕版)

  • 発売日: 2015/05/01
  • メディア: Prime Video

十戒』のリメイクの趣が強いが、そこはやはりリドリー・スコットらしい外連味に溢れている。モーセは後のラムセス2世と兄弟として育ち、冒頭のヒッタイトとの戦では指揮官の一人として前線で戦うのだ。

 そんな戦争のダイナミックな描写、ユダヤ人の解放を拒むエジプトに襲い掛かる災いのグロテスクさには相当なこだわりが見える。ただ映画全体としては(膨大な製作費にもかかわらず)ラストの津波を含め迫力に欠ける部分はあった。

 というのも、おそらく監督は旧約聖書の「奇跡」よりも、一人の人間としてのモーセの葛藤、特に「神と対話する者」としてのモーセを強く表現したかったのだろうと思われるからだ。

 小さな子供の姿をしてモーセの前に現れる神(あるいは神の使い)に対し、モーセは幾度となく疑念や苛立ちをぶつける。自分の出自であるユダヤの民を救いたい思いと、共に暮らしてきたエジプトの民を苦しめることへの罪責の念、そして自分の選択に対する不安を、モーセは神に向かって遠慮なく言い放つ(ヨシュアに対しては、カナンの地を「侵略者」として得るのだ、という苦渋を吐露する)。そして神もまた細かな指示をモーセに示さず、ただ「見ていろ」とだけ言う。

「わたしはあるという者だ*10」という神は、この映画において「隠れたる存在」であり、つまり当たり前のようにそこにあることを受け容れるべきものとして描かれる。だから『十戒』のように率先して民を導くことはせず、民を率いる役目をモーセに任せ、悩みも苦しみも彼の思うままに放置し、答えを与えてもくれない。救いは期待するべきものであるが、その道を切り開くのは民自身なのだ。それは極めて現代的な宗教の捉え方だ。狂信的な絶対存在ではない、心の中に支えとしてある拠り所。

 海を渡った後、「指導者は迷う...だが石は揺るがない」と神はモーセに言って十戒を石版に彫らせるが、モーセは「気に入らないものは彫らない」とあくまで自分の意志を優先し、神もまたそれを良しとする。

 映画は「神の死」を前提とする時代に生きる人々が、なおも神を(あるいは心の中に指針を)持つ意味を問うているかのようだ。

 全体としては正直普通というか、制作費の割りにはと言いたくなる部分はある。しかし旧約聖書本編や宗教に関して学ぶきっかけを得られる有意義な映画ではあった。

*1:大貫隆『聖書の読み方』岩波新書 p.156

*2:大島力『知識ゼロからの聖書入門』幻冬舎 p.2 本書には「年間4億3千万冊頒布」とあるがさすがに盛り過ぎではないか?

*3:フィリップ・セリエ『聖書入門』講談社選書メチエ p.14

*4:雨宮慧『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社 p.12

*5:たとえば『エレミヤ書』31章31節「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」など。

*6:セリエ p.29

*7:山我哲雄『聖書時代史・旧約編』岩波現代文庫 p.ⅷ

*8:大貫 p.92

*9:山我 p.203

*10:出エジプト記』3章14節