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【読書】『ティファニーで朝食を』 トルーマン・カポーティ【映画】

 オードリー・ヘップバーン主演、ブレイク・エドワーズ監督の映画でお馴染み、いやいや映画を持ち出すまでもなく有名なアメリカの小説。作者はトルーマン・カポーティ、翻訳は村上春樹による最新のもの。

 旧訳は既読だが内容は細部をかなり忘れていた。そして今回の村上春樹の新訳を読んだわけだが、それはもうめちゃくちゃ面白かった。

 第二次大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住人に近づきたい、駆け出し小説家の僕の部屋の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。表題作ほか、端正な文体と魅力あふれる人物造形で著者の名声を不動のものにした作品集を、清新な新訳でおくる。

──新潮文庫 作品紹介

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 「旅行中」のミステリアスなヒロイン

  小説家志望の「僕」が引っ越してきたニューヨークのアパートに、ヒロイン、ホリー・ゴライトリーは住んでいた。当時はおおよそ19歳、女性にとって最も魅力な一時期の、ミステリアスな魅力に満ちた人物だった。

 ホリーをさして有名な、「旅行中(トラヴェリング)」と隅に印刷された名刺を持ち、そしてその通り一所にとどまるつもりはないかのように、男(主に金持ちだ)を次々ととっかえひっかえし、怪しげな人々が集まるパーティを開く。うだつの上がらない男である「僕」とはまるで接点がなさそうだが、同じアパートに住む縁で知り合い、「僕」は彼女が旅立つその日まで振り回され続けることになる。

 しかし同時にそのふれあいの中で「僕」は少しずつホリーの抱える暗い闇のようなものに気付いていく。

ホリーの闇に迫る深い読解を示す村上訳

 原文と比較対象したわけではないが、翻訳はすこぶる良い。 孤独や喪失を書き続けてきた村上の訳文はカポーティの文章と絶妙に調和しており、鋭くかつ堅実な読解を導く。一見華やかに見えながらその実ホリーの裏側に蠢いている言いようのない暗闇を、時折はっとするような鋭い文章で提示してくる。さすがは村上春樹

 ブルーっていうのはね、太っちゃったときとか、雨がいつまでも降りやまないみたいなときにやってくるものよ。哀しい気持ちになる、ただそれだけ。でもいやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんたちが悪いの。怖くってしかたなくて、だらだら汗をかいちゃうんだけど、でも何を怖がっているのか、自分でもわからない。何かしら悪いことが起ころうとしているってだけはわかるんだけど、それがどんなことなのかはわからない。

 これは「僕」が「不安感(アングスト)」(下線部本文引用、以下同)と呼んだホリーの告白だ。

 ホリーは自分が居場所を決めないことについて、「自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの」と語り、そしてその場所は「ティファニーみたいなところ」だと言う。何故かというと、ティファニー(ここでは宝石店を指す)の店内には「静けさと、つんとすましたところ」があるからだ。そんな場所にいられれば、ホリーは「アカ」から逃れることが出来ると考えている。そして彼女がいつまでも「旅行中」なのは、そんな聖域がこの世にはどこにもないからだ。

 ホリーはクリスマスプレゼントに「僕」に鳥かごをくれるが、「何があってもこの中に生き物を入れない」よう約束させる。

 昔の翻訳や映画のイメージに引きずられていた時には、自分は単純に「ああホリーは自由でいたいんだな」くらいに思っていた。けれど今回読み直し、例えば、

腰をすえることのできる場所が、すなわち故郷よ。私はそんな場所をいまだに探し続けているのよ。

と言ったつぶやき、あるいは夫のドクに関しての言葉。

「空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの。」

 ここから想像するに、ホリー・ゴライトリーはかごの中に入りたくても入れなかったのではないか。もしくは、自分が望む形のかごが見つからないのではないか(少なくともドク・ゴライトリーは彼女の理想のかごではなかったようだ。ここでは深く論じないが、ドクとの「結婚」には性暴力の雰囲気も漂う)。

失われたイノセンス

 その後麻薬事件への関わりを疑われホリーは逮捕(のち保釈)され、婚約者からも婚約破棄され、一人飛行機でブラジルへ行くことにする。そしてタクシーで空港に向かう途中で飼っていた猫を路地裏に放してしまう。「どっちも一人で生きていくの。お互い何の約束もしなかった。」と。

 しかしすぐにそれが過ちであったことに気付くが時すでに遅く、猫は消えてしまった。「私たちはお互いのものだったのよ。あの猫は私のものだった」。

 猫は彼女にとって最後に残った半身のようなものだった。路地裏に捨てられ路頭に迷う(かのように見える)猫は、そのままホリーの似姿なのだ。だからこそ、彼女は猫を捨ててはいけなかった。

 私は怖くて仕方ないのよ。ついにこんなことになってしまった。いつまでたっても同じことの繰り返し。終ることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ。

 そう呪詛を吐き、ホリーはそのまま旅立っていく。

 その後一度ホリーから手紙が届いたが、まだ住所は決まっていない様子。「僕」の方はあの猫が温かそうな部屋の窓辺に座っているのを見つける。ホリーの半身である猫は落ち着き場所を見つけたようだ。

 ホリーはこの先も居場所を見つけられない負のスパイラルに陥ったまま、上手く大人になることができないまま生きていくのだろうか。その確率は高い。もともと何かに対する資質を持っていない人間が、その何かを達成することは難しい。小説を書く才能が無い人間に、ろくな小説が書けないようなもの。

  訳者の村上はあとがきでこう述べている。

(登場人物の)多くはイノセンスの中に生きようとする。しかしイノセンスが失われたとき(多かれ少なかれそれはいつか失われることになる)それがどこであれ、彼らの住んでいる場所は檻のようなものに変わり果ててしまう。そしてそこに残されているのは、婉曲な自傷行為でしかない。

 最初に読んだ時、自分はずっとホリーがこのイノセンスの象徴のように思えて、いわゆる(まだこんな言い方するのか)小悪魔的な人物だと読んでいたが(浅薄)、今回の村上訳を読んで、その全てが「まやかし」だったのかもしれないと感じた。

 ホリーのイノセンスは、「僕」が出会った時に既に失われていた。「僕」が、そして人々が彼女の中に見たイノセンスはすべて虚飾のまやかしに過ぎなかった。この物語はイノセンスを既に失い、それでも虚構の無垢を塗りたくって生きる、あえて言えばおぞましい人間の物語だったのかもしれない。

 カポーティは美文で知られ、いつかちゃんと原文に当たって読んでみたい。その時にはまたこの村上訳とは違った感想や読解が出てくると思う。

 映画も見たけれど…

 ちなみにこの後すぐ映画をアマプラで見直したのだが、正直退屈だった。ラストの数分は絵として確かに美しいのだけれど、それ以外がどうにもつまらない。音楽は絶品だし、ヘップバーンは綺麗だがそれだけという気もする。ミッキー・ルーニー演じるユニオシは酷過ぎて逆に好きだが。

  いきおい表題作だけの感想になったが、収録作はどれも面白い。

 カポーティも腰を据えて一気読みしたいと思うが、少なくともオースター、フィッツジェラルド、の後になりそうだ。先は長い。