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【映画】『イージー・ライダー』 デニス・ホッパー

 アメリカン・ニューシネマの代表作、『イージー・ライダー』を再鑑賞。

 『イージー・ライダー

 1969年 アメリ

 監督:デニス・ホッパー

 キャスト:ピーター・フォンダデニス・ホッパージャック・ニコルソン

 参考書に町山智浩の『〈映画の見方〉が分かる本』(洋泉社)。

旅立ち・夢

 主人公ワイアットはヘンリー・フォンダの息子、ピーター・フォンダ、相棒のビリー役にデニス・ホッパー、彼は監督も務めた。

イージー・ライダー(Easy Rider)」とは「西部の売春宿でヒモをして暮らす男を指すスラング」(町山64)らしい。ワイアットたちは別にヒモではないが、社会からのアウトサイダーとしてそのように表現されている。

 印象的なシーンが多数。

 冒頭の麻薬密売のシーンでは延々と飛行機の離着陸の音がうるさくて台詞が聞こえない(という演出?)。画面の中で売買が始まりそして終る。北の将軍様のような姿の売人が面白い。

 その後ステッペン・ウルフの"The Pusher"が流れ、物語が始まる。英語のwikiによると、Pusherとはヘロインを指し、国家を破壊する邪悪な存在として歌われていらしい。字幕(ものによって違うかもしれないが)では「売人」として統一されている。ちなみにこの歌には同じ売人を指す"dealer"という語句も出てくる。こちらは主にマリファナを象徴しているらしい。

 カメラ演出にも注目。ワイアットが時計を投げ捨てるシーンでは、以降も多用される短いカットの連続が使われる(「ジャンプカット」(動きの途中を省略して映し出す手法)(町山70))。

 この映画にはクロスフェードが無く、このような短いカット割りで場面の転換を表現していることが多かった。そうした映し方にはとても即物的で、突き放したような印象を受ける。場面が変わるごとに眩暈のような感覚に襲われ、なんだかすべてがはかない夢のように思えるのだ。

 実際、出立一日目でいきなりモーテルでの宿泊を拒否された二人が焚火をして野宿をするシーン。ビリーは「すこしくたびれた。ここにいる自分は抜け殻で、心ここにあらずって感じがする」とつぶやく。実質を伴わない虚無の中に、彼らは初めから足を踏み入れてしまっていたのかもしれない。

放浪・自由・暴力

  落ち着く場所を見つけられないまま二人はテキサスのパレードに参加したことで逮捕され、そこでジャック・ニコルソンが演じる弁護士のジョージに会う。

 ジョージは黒人解放運動にも参加したインテリだが、宇宙人(幽霊?)について熱く語ったりするなど、ワイアットたちとは別の方向にトンでいる。米ソ冷戦が激しかった時代はそうした陰謀論が盛り上がっていたようだが、彼もまたその時代に取り残されたアウトサイダーなのかもしれない。

 ジョージの力で牢から出られた二人は彼と一緒にさらに放浪を続け、やがて南部にはいり、そこで未だに貧しい暮らしをしている黒人たちの姿を横目に、安食堂に入る。それが破滅への転換点だった。

 店にいる白人たちからこれまで以上に露骨な嫌悪の言葉を向けられる。彼らは「レッドネック」(貧乏白人)というらしい(町山68)。よそ者に対しての敵意はそれまでと変わらないが、そこには「無事に(この街を)出られるかどうか怪しいな」と、確かな暴力の予感があった。

 最後の夜、ジョージはビリーに「自由」について、そしてそれを恐れる「彼ら」について語る。以下要約気味に。

「彼らは君たちが象徴するものを恐れてるんだ、自由だよ。彼らと君たちの自由は似て非なるものなんだ。彼らは自由が気軽に買えるものじゃないことを知ってる。彼らが自由じゃないなんて言っちゃだめだ。そしたら人殺しをしてでも自分が自由だって証明しようとするだろう。なるほど皆『個人の自由』なんて言うけど、口先だけだよ。そこに『違う自由』が現れると、怖くてしょうがないんだ」

 どこか啓示的なジョージの言葉通りなのか、その後三人は就寝中に襲撃を受け、ジョージは死亡する。

幻想・失敗・排除

 以降、映像はどこか論理性を欠いた雰囲気に包まれていく。ジョージへの鎮魂と言ってビリーが誘うまま二人は娼婦を買う。

 外に出ると、ニューオリンズの町では謝肉祭、「マルディ・グラ」の最中だった。デニス・ホッパーが16mmで撮った(町山70)という荒い映像が、肌を撫でるような臨場感と、そして続くトリップのシーンに繋がって足もとをぐらつかせてくる。

 聖書の文句がバックで朗読される中で流れるドラッグの幻覚。ワイアットは聖母像を抱きかかえながら泣き崩れ、娼婦は肉体と精神の境界が無くなったかのようにうわ言を叫ぶ。

 今でこそインディー系の映画や音楽のMVなどで目にする機会の多いこのような演出は、しかしこの時代画期的だったらしい(町山70-71)。

 社会からはみ出したワイアットたちと同じように、ハリウッドからはみ出たデニス・ホッパーたちは既存の概念を突破する新しい表現を生み出した。しかし物語の人物たちには、現実よりはるかに悲惨な物語としての結末が待ち受けている。

 先へ進もうとする途中、「からかってやろう」とちょっかいを出してきたトラックの同乗者に撃たれ、二人はあまりにもあっけなく命を落とす。アウトサイダーである彼らの命になど、何の価値もないと一蹴されてしまったかのように。

 映画はそのまま南部の広大な自然を俯瞰して映しながら『イージー・ライダーのバラード( "Ballad of Easy Rider")』とともに終わる。

焚火の夢

 最後の焚火のシーンでワイアットは「しくじったんだ」と苦虫を噛むようにつぶやく。自由を求めて、そして自由になれたという幻想を抱いて始めた旅は、やはり幻想に終わってしまった。

 言うなれば若者に厳しい現実を突きつけるリアルな終局だが、上述のトリップをはじめとする斬新な表現、ロード・ムービーの体裁を借りてアメリカ各地の風景を記録フィルムのように映し出し、そこに自由への渇望とその失敗を埋め込むことで、どこか遠い世界のおとぎ話のような雰囲気が作品全体に現れているように感じた。

 多く差し挟まれた焚火のシーンも効果的。野宿が多いせいか焚火の灯りとのコントラストとして現れる暗闇によって、交わされる会話がとても示唆的に聞こえる。実際にロードムービーとして動きのあるシーンと、焚火を囲んで静かに語り合うシーンとは対比されていると思う。自由を求め静かに思索にふけるとき、それは確かに夢の中で実現している。たとえ次の瞬間崩れ去るものであっても。

 純文学的に世の中の厳しさをうそぶくのも構わない。けれどたとえ幻想であったとしても、そのはかない夢は生きていくために必要だ。それが無ければ、人は『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーが抱えていたような、「いやったらしいアカ」に押しつぶされてしまう。

 十数年ぶりに見返したけれど、今でも褪せない名作。

 サウンドトラックも良くて、映画を見た後何度も繰り返し聴いてしまう。

  参考にした町山智浩の本も面白い。併読推奨。